ホッセイニの『君のためなら千回でも』でも最後のほうではだいぶ泣いてしまったのですが、
先日購入した
でもだいぶ泣いてしまいました。
だいぶ涙腺緩くなってしまったんだろうね。まぁでも泣けますよ。たぶん。
『君のためなら千回でも』は本来泣く小説なのかどうかはわかりません。翻訳文学ってものに触れたのが久しぶりなのでなんとも言えないのですが、主人公の立ち位置の後ろからひいて眺めているような、レースゲームによくあるような視点で描写されているんですよね。まぁ当たり前かもしれないですけども。そこからずっとぶれない、というのが読み進めやすさの一因であるようです。そして案外人間関係的にはずっと小さな世界で展開されていきます。イスラム世界がそのような性質を持つからかどうかはわかりかねますが、世界が非常に小さく、狭いだけに個々の人間同士のつながりが濃密に描かれているような気がします。
主人公を中心とした主要な登場人物に関する描写や感情表現、つながりは非常に密に描かれているものの、それ以外の人間と登場人物との相関、やりとりが極端に排除されているからこそ読みやすいのかもしれない。
ここまで書いてみて思ったけれど、世にあるおよそ読みやすいといわれている作品に大体当てはまりますよね、このパターン。
極端な話、登場人物が2人でも物語は進められるし、仮にそのうちの1人が実際に物語の中に登場せず、一方の独白の中に登場すればそれで事足りる、という場合もあるわけで。
この作品なんかはまさに主人公と、作品中には一度も現実のものとして登場せず、主人公の妄想の中にのみ存在する相方によって構成される話ですし。
逆に登場人物を極端に増やし、一人称をごちゃごちゃにすることで、その向こうにある事実をクリアにする、というような手法も存在すると思うんですよ。その手の小説にはいまだあったことはありませんが。
小説って難しいですね。作者が適当に書いたことを読者が伏線ととらえたり、または作者が伏線として描いた部分が読者に全く気付かれずに結末が唐突になってしまったり。あ、でも後者は作者の力量不足か。
まぁ夜中に書いた文章なんてこういうまとまりのない文章になりがちですよね。
偶に、あきらかに作品中の登場人物たちが作者の手を離れて好き勝手暴れてるなぁ、という小説を見ることがありますが、それはそれで面白いものですよね。